北仲スクール、アングレームなど2月のこと

またまた空いてしまった。忙しかったと言っておこう。出張も多かった。もちろん、感激したこともあったし腹が立ったこともある。普通のブログなら気軽に書けるところも、学長室ブログとなると取捨選択が必要となる。だから、個人のサイトを立ち上げたいとも思っている。
それはそうとして、2月の中頃、横浜の北仲スクールで3日間の試行授業というのをやってきた。このスクールについてはサイトもあるので、細かなことはそこをチェックしてもらえばいいが、神奈川にある6つの大学・大学院に精華が加わった7大学の新しい学びの場である。今回は「マンガの領域」ということで、3人のゲストを迎えて、歴史、海外マンガと日本、マンガの未来といった3つのテーマをすえた。ぼくがコメンテイターのような講師で、ゲストとして竹熊健太郎さん、小野耕世さん、熊田さんと豪華なメンバーをお呼びした。竹熊さんと熊田さんは精華のマンガ・プロデュースの先生。小野さんはマンガと映画の評論家で、日本で早くから世界中のマンガを見続けている人である。精華からは大学院の学生10人ほどが参加し、その他、横浜や東京からの参加者もあった。
ぼくはマンガが好きだが、本格的に知識を積み上げてきたわけではないので、こうした授業に参加できたのは楽しかった。自分で企画した授業なのに、熱心な学生として聞いてしまった。3日間話しを聞いていて、マンガについてもっと情報を入れようかと思っている。去年の12月にマンガミュージアムで国際学会があったときはフランスのピエール・グルデスタンという理論家が来ていて刺激された。マンガの研究はやることがいっぱいある。
2月はその前のアングレーム(世界でもっとも有名なマンガ・フェスティバル)出張もあって、珍しく風邪をひいて体調が悪かったが、春到来となればそんなことも言っていられない。休みだがやることも多い。5月に来日し、マンガミュージアムと精華共同で行うBD(バンド・デシネ=フランスのマンガ)の二人の巨匠の展覧会、講演会、ワークショップの準備も急になってきた。去年のメビウスほど日本では知られていないが、「ヴァレリアン」というSFマンガで知られているジャン=クロード・メジエールとこれも有名なマンガ原作者ピエール・クリスタンが来日するのだ。メジエールは「フィフス・エレメント」の美術設定や「スターウオーズ」がアイデアを借りたことでも知られている。クリスタンは多くのBDに原作を提供する、また小説も書くフランスの大御所だ。この2人に会いにアングレームに行ってきたのである。この豪華な二人の展覧会や講演はすごく刺激的になると思う。また、人数が限られるが、精華の学生と一緒にBD(マンガ)を制作するワークショップなんて贅沢の限りである。1日1日に天気が変わる。後数週間で櫻である。早い!学長としてもうすぐ4年。これも早かった!

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アングレームにてマンガ関係者との懇談会:左列の中央が5月に来京するジャン=クロード・メジエール

新年

長くブログを更新してなかった。いただいた年賀状にも、もうやめたのですか?と書かれたものも少なくなかった。ごめんなさい。忙しさと気持ちのノリの悪さで、つい更新をおこたってしまった。この2010年は少し気合いをいれて更新度を増やすことにします。ともかく、小寒になってしまったが、あけましておめでとうございます。
さて、旧年のことで気がひけるが、歳をとることが悪いことではないという経験が昨年2度もあった。記憶能力が薄くなるといった利点ではなく、何十年も会ってなかった人に会えた幸運である。そのどちらも40年ほど前に一緒に旅行をした人で、ひとりは大学時代に沖縄の島で1ヶ月暮らした仲間のひとり、もうひとりは1ヶ月半イスタンブールからニューデリーまで列車とバスで旅行した3人の仲間のひとりである。その2つの旅行はいろいろな意味で印象に深く、またそれからのぼくに影響を与えたこともあって、克明に記憶されている。なのに、これまで会う機会をつくろうとしなかったのは、ふたつの旅行とも強烈すぎて、再会しても同じ経験ができない、あるいはその幻想がくだけてしまうのでは、というおそれのためだったのかもしれない。失恋した人と再会するのがこわいのという感情に似ているかもしれない?
ところが、年齢がそうした幻想とか怖れをニュートラルにしてくれるのか、中近東からインドまでの旅行仲間のひとりとの40年ぶりの再会は素直にうれしかった。もちろん顔は忘れてしまっている。でも会ったとたん、当時、つまり1970年の旅行の雰囲気がよみがえったのだった。まったく違った生活をしてきたのに、その旅行がいつも心の深いところにとまっていたことが同じだったからだと思う。
そうした人はまだまだいる。年賀状だけをやりとりして20年とか30年という人も少なくない。年賀状をやめられないのは、再び会えることを期待しているためかもしれない。この正月、酔った頭でそんなことを考えていた。
みなさん今年もよろしくお願いします。

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フットボールに思う

精華のHPを見てもらえばわかるが我がセイカはイベントが多い。それも手前味噌ではなく、かなり充実していると思う。そのセレクションには精華のスピリットがある。アセンブリーアワー、情報館、そして各学部やコースが招くゲストによる講演等々。そうした催しは、正規ではないが、「オフクラス」の授業として学生たちに刺激を与えていると思う。大学は「驚きのある場」であってほしいと思っている。「あっ!」と感じる、そんな言葉や体験が多様に交わされる空間は、大学の起源とも言うべき古代ギリシャの「アカデミア」にもあった。セイカの催し物は、一般の人、高校生にも開かれているものも多いので、ぜひチェックしてください。
さて、一度、ブログでサッカーのことを書きたいと思っていた。後期も始まり、CLや各国リーグが始まった。この二つは、ただ「始まった」という言葉だけで繋がっているのだが、不思議にサッカーについてブログに書く動機になるのである。

サッカーというスポーツが好きで、ずいぶん長く見ている。日本ではサッカーと呼ぶが、本当は世界基準でフットボールと呼んだほうが、このスポーツの面白さがもっとわかると思うのだが、それはともかく、スペクタクルという点では一番面白いスポーツではないかと思っている。
競技ということにかぎれば、足だけという抑圧のなかでキーパー以外の十人が身体と頭をもっとも効率的に使ってゴールをめざすところに生まれる、必然と偶然のスリリングさだ。必然というのはチームとしての戦略のことである。戦略は言葉とイメージによって組み立てられた論理である。そして、この精度を高めるのは監督である。名監督はこのことをよく理解している。日本でもっとも話題となる代表チームのことでいえば、先のワールドカップの監督ジーコは必然の論理に欠けていた、とぼくにはみえた。といって、戦略だけがチームの前面にでると、プレーヤーの個と偶然のダイナミズムが失われてしまう。ジーコの前任者、日韓のときのトルシエがそうだった。現在の岡田監督がどうなのか、まだ見きわめることができないが、個が十分とはいえない日本ではひょっとしたら戦略しかないのかもしれない。ともかく、必然と偶然、この二つがうまくバランスされていることが重要なのだ。ヨーロッパの強いチームは、そのことがよくわかっている。Jリーグや日本代表にはまだ届かないレベルだ。
サッカーというスポーツが世界中の人を熱狂させるのは、競技そのものにおいてだけではない。このスポーツが「世界の現実」とでもいうものを過激に抱えこんでいるからだと思っている。政治、経済、文化のすべてを、そしてそれらの矛盾までも含みこんだ現実そのもののことである。したがって、サッカーとはけっして幸せなスポーツではないのだ。
たとえば、ヨーロッパのチームにはアフリカ人の優れたプレーヤーが数多くいる。ただし、そうしたプレーヤーの活躍の陰に、挫折した、それだけならいい、エージェントにだまされて悲惨な境遇に陥った無数のアフリカの若者たちが存在するのだ。もちろん、優れたプレーヤーもスタジアムでしばしば偏見の言葉にさらされる。アフリカのプレーヤーたちは、そうしたことすべてをわかったうえで、ピッチで躍動している。それは、見るものにとってのアリストテレス的な意味でのカタルシスとなる。サッカーは、そうした意味でも、残酷なスポーツである。
サッカーが世界の現実の表象であることは、たとえば、グローバリゼーションという現代のキーワードをいち早く実現したことからもわかる。イングランドのチームでは、イギリス人がひとりも先発に入っていないということもまれではない(去年からは傾向が変わってきたが)。日本では想像できないことである。このことが良いか悪いかには意見があるだろうが、グローバリゼーションとは究極、こうした姿にもなるのだ。ナショナリティーという概念がサッカーでは崩れ始めている。しかし、そのことによって、プレーの質とスペクタクル性は飛躍的に向上し、大きな金銭を産みだすことにもなっている。金融工学の手法にも似ている。だから弱者も大量に生みだすことにもなる。先のアフリカの夢見る若者もそのひとつの例である。
こうした世界の現実、矛盾を背負いながら、プレーヤーは一人の人間としてピッチを駆けめぐる。どのような出自を持とうが、彼は戦略という規制のなかで個を表現しなければならないのである。そうしなければ、自分の立つ場所もない。見事なパスやシュートが感動的なのは、それが世界の現実に亀裂を入れ、希望の回路を幻想させてくれるからである。

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実写のカンプノウ(感動!)

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バルセロナでの池垣先生(版画)の個展風景(よかった!)

後期開始を前にして、夏回顧

夏休みというと、もうずいぶん前のことのように思える。大学の後期は来週からだが、仕事はとっくに始まっている。ここ数日、気候も急に涼しくなり、さあー!授業が始まるぞ、という気持ちになってくる。インフルエンザの流行を始め心配事も多いが、後期を充実させることで1年がどうなるかが決まるのだから頑張らないと、と思う。頭にいろいろなことを思い浮かべながら、この夏休みのことを少し思い出していた。長く空けてしまったブログの再出発は、そんな夏休みのことから。
夏期休暇を利用してパリにいた。お盆をはさんでの1週間とちょっと。これまで一番と思える天気で快適に過ごせた。日頃の神経的凝りが少しほぐれた感じだ。ゆったりした時間の中、久しぶりにブログを更新と思っていたのに、好奇心がうずいて、結局、帰国後にブログを書くことに。
7月、8月のパリは観光客ばかりでと皮肉を言う人もいるが、そんなこともない。もちろん、画廊は閉まっている。古本屋も休みだし、ライブハウスも数点しか開いていない。展覧会や映画も秋を控えて、すべてが良質であるとは言いがたい。それでも面白ことはいっぱいある。
図書館や本屋に行く以外、今回は映画に没頭してしまった。パリは世界で一番映画の見やすい都市である。また、見たくなる都市でもある。まず、世界中からの映画が集まっているのがうれしい。ラテンアメリカとか東欧、あるいは北欧など、日本ではあまり見る機会のない国の映画も多いので、そんな国の映画につい足を運んでしまう。ハリウッド物はDVDでと思うし、フランス映画も見ないわけではないが、恋愛ものが多くて、それもすっきりしないので敬遠する。まあ、ニュアンスにとんだ恋愛心理のアヤを聞き取るのが難しいということもあるのだが。
それから、映画館での特集プログラムが充実しているのもうれしいが、短期の滞在だとちょっとつらい。もちろん日本映画の特集も盛んで小津や溝口なんて1年中特集があるような気もする。また、ある映画を封切りのときからずーっと上映し続けている映画館もある。映画館主のこだわりというのだろうか、映画配給が完全にシステム化されているのに、こうしたことができるというのも、映画の都市であるゆえんかもしれない。
10数本見たなかで、女性監督マリア・ヴィクトリア・メネスの「カメラ・オブスクーラ」とリサンドロ・アロンソという監督の「リヴァプール」などアルゼンチン映画が印象に残った。20世紀初頭のアルゼンチンのユダヤ人移民家族を舞台として、カメラの視線によって解放されていく女性をテーマとしたのが前者だが、暗室として使われた小屋の小さな板隙間を通して映し出される主人公の映像がなんとも奇麗で、カメラという第二の眼が光とともにあることを改めて実感した。もうひとつの方は、ひとりの船乗りの帰郷を、センタメンタルな要素をすべて削って撮った一種のロードムービーで、DVDだったら絶対最後までは見ないようなタイプの退屈といえば退屈な映画なのに、ラストシーンが素晴らしく(そこではじめてタイトルの意味がわかる)、それですべてがひっくり返って感動してしまう映画だった。こんな映画に感動するのも映画都市のなせるわざか。
毎日映画を見ていると身体も映画的になるというか、どこにいっても映画を思い出すようなことになってしまう。1日だけ訪れたノルマンディーの海岸は、ロメールの名作「海辺のポリーヌ」の撮影現場近くで、これぞ「ロメール的1日」の気分で過ごしたのだった。そうした休暇もまたたく間に終わった。
でも、そんな映画的身体は、帰国後の出張にもつきまとい、行った先々、鯖江の河和田(学生たちがアートキャンプをしている)の風景も、長野県の栄村(大学のフィールドワークのひとつ)、大地の芸術祭が行われている妻有のトリエンナーレ(今年始めて精華の立体を中心に出展した)での、たとえば棚田にも、これまで見た映画に風景や人間を重ねていたのだった。そして、ある高校を訪れたために行った松本ではC級だけどなぜか今でも心に残る「ロックよ静かに流れよ」が蘇ったのだった。
ただし、この夏の映画的モードは先週で終り。次は当然、大学後期モード。手帳もだんだん黒に染まっていっている。

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パリの地下鉄駅のマクドと百貨店ボン・マルシェのポスター、映画的だ

梅雨の終り

スケジュールが真っ黒になった手帳の日程表を見ている。6月から7月、前期の終りが近づいてくると用事も多い。ほんと忙しかった。そんなことを思い出しながら、考えたことがある。
昔と違って大学はかなり様変わりした。教師の立場からすれば、とにかく忙しくなった。これは職員も同じだろう。大学教師というのはーぼくの知っている文化系や芸術系の場合だがー「ゆったり」と研究に励むことができた。この「ゆったり」を研究に当てない教師もいたので、いいことばかりではないが、ともかく長いスパンで研究に取り組むことができたのである。そうした教師のリズムに合わせて職員も働いていたのだから、のんびりしていた。
そうした大学のありようがいつの頃からか変わってきた。何かにせき立てられるようになり、走るようになったのである。もちろん、世間(会社)のリズムからすれば、ジョギングと見えたかもしれないが、昔の牧歌的な雰囲気はなくなった。
その大きな原因のひとつは、大学が社会と関係をもつようになったことかもしれない。昔は大学の自由自治という理念が世間もどこか承認していたような気がする。大学は社会と一線を画し、大学という独自の価値をもっているということが認められていたのである。この価値におかしなところも多かった。それを直すという意味では、大学の社会化というのはすごく重要だ。その結果、多くの制度が導入されることになった。文科省の指導もある。成績から教職員と学生の問題まで、社会と関係することの必要なきまりが次々とつくられてきた。そして大学のことを社会に知らせていくこと(ディスクロージャー=disclosure)の原理も自然なものとなる。
そうなると何か問題が起こったときに、隠すことはできなくなる。そもそも昔は「隠す」という感覚も薄かったとも思う。そして、それが自由自治という土台を腐らしていたことにも気づかなかった。そうした風土に社会が入ってきたのである。これは悪いことではない。そういった意味では、せかされているが、大学はよくなってきたといえる。
しかし、一方で大学の社会化は、日本独自の大学風土を奪うことにもなっている。大学の独自の価値を世間が認めていたのは、そこに理想の共同体性を求めていたからではないのか。それは、大学が若く未来のあるそしてナイーブな精神をもった若者たちの人間的成長をかなえる場であるという認識だろうし、そのためには俗な世間とは一定の距離をおく必要があるということを認めることでもある。また、教師は、若者の師として、教師が研究者としてだけでなく人間的な人格者であることも前提されていた。言ってみれば、大学という共同体がユートピアとして存在していたことである。
この共同体性が幻想であることは間違いないが、しかし、そのような幻想を破り捨て、社会と同じ価値観で運営されるとしたら、大学の存在とは何なのだろうかと考える。社会に役立つ知識や技術を実践的に身につけること(ひじょうに重要だが)、それだけを目標にしていればよいというものではないだろう。そんなことを考える。
今の大学はいろいろな問題を抱えている。精華でも同じだ。そのたびにどのように解決したらよいのかと悩む。大学でできることは何なのだろう?社会に開かれたことを前提にして、それでも大学という共同体が独自の価値をもつためには、何を考え、何をしたらよいのか、6月から7月の日程表を見ながら考えたのである。少し重たい文章を綴ってしまった。
家の近くの道端に朝鮮朝顔が咲いていたので家に飾った。お恥ずかしいが、この年になって始めて知った。名前から朝鮮半島由来と思ったがそうではないとのこと。花の白色が梅雨の終りのうっとうしさをやわらげてくれる。

asagao

朝鮮朝顔