桜の季節とランボーと

長くブログを更新していなかったので、そろそろ引き上げ?と思った人も多いかもしれないな?
と思って、書いてます。ともかく、年度末、2月末から3月は会議、学長室の引っ越し等々で慌ただしくて、ブログへと頭が切り替わらなかったのです。また、いろいろと式辞なども書かなくてはいけなくて、ブログ的頭に切り替わらなかったというか。まあ、こんな言い訳をするくらい長い中断でした。
4月に入ってキャンパスに学生が帰ってきた。桜が咲く以上にキャンパスが明るくなる。大学は学生がいないと大学ではないということですね。気持ちもしまる。そんなこんなで、本をじっくり読む時間がなかったが、3月の卒業式のときに、19世紀のフランスの詩人アルチュール・ランボーの話をしようと思って、数年ぶりに宇佐美斉先生訳の『ランボー全集』(ちくま文庫)を読んだ。じっくり読みすぎて、卒業式の式辞がなかなか書けなかったのだが。
ぼくがランボーを発見したのは、恥ずかしながら、50を過ぎてからのことだ。若い頃はその生涯の神話性をかじっていただけで、実際の詩はたいして読まなかった。それを年取って読むようになったのは、変な話だが、ある夏、半身浴をすることになったからである。ただ、半身をお湯につけて45分ほど「ぼー」としているのは退屈である。そこでランボーを持ち込んだのである。そしたら詩が身体にぐんぐんと入ってきたのだった。その入り方は、意味を理解するというのではなく、詩が詩そのままに感覚されるというか、とにかく気持ちがよかったのである。そして、ランボーを、乱暴な言い方だが、知った。
そのランボーを再読したのが、この3月。2月から3月の初めまで、読書熱はちょっと沈下していたのだが、ランボーとともに読みたい気持ちが前に出てくるようになった。ただし、この「読みたい気持ち」は本にだけ向かうのではなく、美術、マンガ、映画、テレビドラマ、サッカー、料理等々、ともかく何であれ関心のあるものに向かうのである。それが桜がほころび始めた季節であるというのは、やはり、気候と気持ちは深く関係しているのである。「やはり」というのは、気象文化学ということに妙に納得したことがあって、ある時代やある芸術家の文化状況を気象にからめて考えてみたいと思っていたときがあったからだ。そんなことも思い出していた。でも、それもまだ実現していない。
長い中断のあとのとりとめのない話になった。今週からは授業も始まる。そしてあと1ヶ月するとフランスのマンガ家、「あの」メビウスが精華とマンガミュージアムにやってくる。展覧会もある。ゲストもすごい。あと数日したら詳しい情報がでます。楽しみにしていてください。

桜